家の片付けで2階の倉庫の中に50年近く埃をかぶっていた掛け板?を見つけました。板に書かれていました。
我獨慙天地。どんな意味なんだろう?
我独り天地に慙ず(われひとりてんちにはず) 和気清麻呂公の言葉。自宅から車で15分ほどの宇佐八幡さまは清麻呂公と縁が深く和気の地名もあるし、船着き場も残っている。清麻呂公が出てくるのは道鏡事件である。事件が起こったのは769年清麻呂37歳。僧道鏡が政界に入り、女帝の孝謙天皇から特別深い寵愛を得て、最後には天皇の位を望むようになった。そこへ宇佐の神官を兼ねていた九州大宰府の主神習宣阿曽麻呂が朝廷に「道鏡を天皇の位につければ天下は太平となる」というお告げ(神託)をもたらす。天皇は驚き、神意を確かめるために使いを出すことになる。そこでその役に抜擢されたのが清麻呂公。実は当初称徳天皇側近の尼僧和気広虫(法均尼)を召そうとしたが、虚弱な法均では長旅は絶えられないと弟の清麻呂を召し、姉に変わって宇佐八幡の信託を確認するよう命じられることになる。運命感じますね。 宇佐から帰った清麻呂は死刑を覚悟で、先のお告げとはまったく反対の「道鏡を除くべし」という内容を神意として言上した。
これは政治の私物化に対する大抗議でもあった。当時の大部分の人は道鏡への譲位に疑問をもっていたにもかかわらず、左大臣以下誰も声に上げて反対しなかった。
これに対し命をかけて抗議したのが清麻呂公ただ一人だった。これにより、清麻呂公は大隅国(現鹿児島県)に流罪となったが、道鏡の失脚により都に呼び戻され、平安遷都など平安時代の礎を築く重要な役割を担った。
この類をみない危機に立ち向かった清麻呂公の行動・精神は日本史上に一筋の光彩をはなっている・・・ と書かれていました。
我独り天地に慙ず 世の中の人がどうあっても、自分ひとりだけは天地の澄み切った心に照らして、恥じることのないように、また自粛自我を心がけ謙虚に正しい道を歩もう。
和気清麻呂公像
埃を払ってとりあえず階段を上がってすぐ目に入るところに掛けました。
のぼりつめたところに独り天地にはずというか、意を正す場所にしょうと思います。
この時期に清麻呂公の言葉に出会うのも何か意味があるのだと思います。最近ちょっとたるんできてます。なんとなく地に足が着いてないような気分が続いて。軸がずれだしたかも知れません。何だろう。